建築探偵のアングル

アングル270

法師乃湯 身と心とを豊かにする秘湯
法師乃湯 身と心とを豊かにする秘湯

秘湯の一軒宿・法師温泉長寿館

 

変わった名の法師温泉は、1200年前に弘法大師・空海が関東巡錫の際に発見したことに由来します。法師温泉の創業は、上越線開通に尽力した岡本 貢(1836-1922)で、石打駅前に「上越線の父」として立像が建っています。法師温泉・長寿館は、上毛高原駅からバスを乗り継いで1時間ほどの山あいの一軒宿です。

その開業は1875年(明治8年)で、現在の建物「本館」(木造2階建、切妻、杉皮葺、面積368㎡)が建つ。「法師乃湯」は1895年(明治28年)築で、アーチ形の大窓をもつゆったりした建物(木造平屋建、寄棟、杉皮葺、建築面積119㎡)。源泉は無色透明の硫酸塩泉で、湯船の底に玉石を敷き詰め、その隙間から温泉が自然湧出する仕組み。また「別館」(木造2階建、切妻、鉄板葺、面積276㎡)は1940年(昭和15年)築。

老舗旅館・長寿館は、現在岡本家の六代目が守り、本館、法師乃湯、別館が「国土の歴史的景観に寄与している」として2006年(平成18年)に国の登録有形文化財に。与謝野鉄幹・晶子、若山牧水、川端康成など多くの文人墨客から愛された秘境の湯宿です。また「法師乃湯」(男女混浴)はかつて国鉄のフルムーンの旅ポスター(上原謙と高峰三枝子の入浴写真)になり、法師温泉の名が全国区に。また映画「テルマエ・ロマエ2」のロケでも使われています。

本号は、修善寺・新井旅館(264号)、渋温泉・金具屋旅館(266号)に続く〔旅館ホテルシリーズ3〕です。(2023.07.01.HK)

 

 

 

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アングル269

国の登録有形文化財「葉山加地邸」玄関
国の登録有形文化財「葉山加地邸」玄関

~葉山の旧加地邸~

 

神奈川県葉山町は明治時代以降、皇室葉山御用邸をはじめとして別荘(別邸)の町ですが、御用邸近くに旧・加地邸があります。1928年(昭和3年)に当時三井物産の監査役などの重役であった東京の加地利夫氏が建てた別邸です。設計はFL・ライト18671959の高弟・遠藤 新18891951によるもので、遠藤の数多い住宅建築設計のうちでも代表的な存在です。

旧・加地邸は、2014年秋に大掛かりな一般公開をしましたが、当時で築86年経過、他の文化財と同様に人が住まず老朽化が進んでいる状態でした。住宅遺産トラストや保存の会など多くの関係者を巻き込みながら、この建物を2016年に川崎の民間会社が継承。施主とともに気鋭の建築家は、遠藤の建築を創造的保存することに努めました。ライト調プレーリースタイル(草原様式)の幾何学を受け継ぎつつ、また再定義しながら「ホテルにリノベーション」しています。2017年に国の登録有形文化財になっています。他の多くの文化財はその修復・保存継承に苦労していますが、2020年秋より一棟貸しのホテルとした「葉山加地邸」は、文化的価値のある建物の動態保存として一つの方向を示しています。

遠藤の建築については、これまで藤沢市の旧・近藤邸、真岡市の久保講堂、新宿区の目白ヶ丘教会礼拝堂、西池袋の自由学園明日館をこのアングル(259号・263号・265号・268号)で取り上げています。〔遠藤 新シリーズその5〕(2023.06.15.HK                                    

      

 

 

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アングル268

重要文化財の自由学園明日館
重要文化財の自由学園明日館

~西池袋の自由学園明日館~

 

大正時代に羽仁吉一・もと子夫妻は、婦人の地位向上の一環として月刊雑誌『婦人之友』を発刊する一方、子供が自ら考え行動できるよう教育向上を目指し、キリスト教精神に基づき「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」をモットーに、1921年(大正10年)に自由学園を創立しています。夫妻と旧知の遠藤新の仲介で、その教育理念に深く共感したライトは設計を快諾。自由学園はライトと遠藤による建築で、同年に中央棟、西教室棟、数年のうちに東教室棟、講堂がそれぞれ完成。1934年(昭和9年)には教育本体は東久留米市に移転し、現在ではこの明日館(みょうにちかん)は卒業生や一般社会人などに生涯学習活動の拠点として、また結婚式、展覧会、コンサート会場などにも貸し出す等、動態保存のモデルとなっています。

遠藤新(18891951)は東京帝国大学建築学科を卒業後に、FL・ライト18671959)に心酔し、ライトのアメリカの工房(タリアセン)で学びつつ仕事に精出しています。ライト・遠藤は旧帝国ホテル建築に従事しますが、自由学園明日館も同ホテルと同様に左右シンメトリで,低く横広の落ち着いた風情となっています。1997年(平成9年)に国の重要文化財に指定されています。

なお、ライトの設計の基本はプレーリースタイル(草原様式),有機的建築(環境との調和;土地の周囲の風土や文化を重んじる)ですが、2019年7月にユネスコ「世界文化遺産」となっています。   〔遠藤 新シリーズその4(アングル259号・263号・265号を参照)2023.06.01.HK

  

  

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アングル267

親水公園に移設された3代目戸田橋の親柱
親水公園に移設された3代目戸田橋の親柱

~戸田橋の親柱~

 

 埼玉県戸田市は「荒川の流れと武蔵野の大地を故郷に、自然を守り、住みよい環境をつくり教養と文化のみのりを未来に残す」という趣旨の市民憲章が定められています。市民が目につきやすい街角の公園にも掲示されています。その荒川にかかる戸田橋は現在4代目。戸田橋から荒川上流にかけてボート場があり、周辺にはいくつもの大学の短艇部(カッターボート)の合宿所が建ち並び学生がボート場を行き来しています。

   現在の戸田橋は1968年(昭和43年)竣工の4代目で、初代は1875年(明治8年)、2代目は1912年(大正元年)、3代目が1932年(昭和7年)でした。現在戸田親水公園に移設されている3代目親柱は、2015年(平成27年)に有形文化財建造物として戸田市が指定しています。向かって左に「戸田橋」右に「埼玉県」の銘板がはめ込まれています。親柱の石材は岡山県北木島産の花崗岩、デザインはアールデコ調の石造彫刻が施されています。設計者は昭和初期の橋梁設計者として知られる増田淳、当時は戸田橋を渡る人の眼を惹きつけていたそうです。現在は無くなっていますが4面に鋳造青銅製の電灯がありました。戸田市は昔から荒川の河川交通とともに発展してきました。親水公園の床面には初代から3代目までの橋の様子が描かれており、戸田橋がまちの記憶に大切に受け継がれている様子が感じられます。(2023.05.15

 

 

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アングル266

金具屋(斉月楼) 国の登録有形文化財
金具屋(斉月楼) 国の登録有形文化財

~登録文化財の旅館を大事に使う(金具屋)~

 

日本各地に百年を超す古民家が残っています。しかし木造建築の保存は大変難しく、一般客が泊まる公用の旅館ともなればなおさらで、その維持・利用管理する努力は並大抵のことではありません。北信地方の渋温泉は長野の善光寺に詣でる参拝客が昔から良き温泉として宿泊してきた温泉街ですが、金具屋はそのランドマークともなっています。元々の創業は1758年(宝暦8年)、温泉宿を始める前は鍛冶屋(金具職人)であったことで旅館名に。同館の中心は1936年(昭和11年)に完成した木造4階建て「斉月楼」で昔ながらの湯治客に対応し、また130畳の「大広間」の完成により昭和初期からの観光旅行客にも対応しています。宮大工によって建てられた伝統的な日本建築で、2003年(平成15年)には斉月楼と大広間が登録有形文化財に。ライトアップされた斉月楼はそぞろ歩く湯客に素晴らしい景観を提供しています。

横須賀は海軍発祥の地、軍人の家族や慰問に訪れた著名人など多くの人々が利用する旅館が必須でありました。軍港の前、現京急汐入駅近く、国道十六号線沿いに、1930年(昭和5年)に「新井閣」が新築され、海軍指定の旅館として存在感を示してきました。戦後は平和な時代となって宿泊客減少等により、1997年(平成9年)に取り壊してマンションに。もし存続していたら、温泉地の旅館ではなくても、観光都市を目指す横須賀の目玉として、金具屋のような存在になれたかもしれません。(2023.05.01.HK

  

 

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アングル265

目白ケ丘教会礼拝堂 外観 国の登録有形文化財
目白ケ丘教会礼拝堂 外観 国の登録有形文化財

~新宿区の目白ヶ丘教会礼拝堂~

 

山手線・目白駅から南へ8分ほど、下落合の一角に立地する日本バプテストキリスト教目白ヶ丘教会。当初、1911年(明治44年)に小石川バプテスト教会として創立し、第二次世界大戦中に現在地に移転して名称を変えたもの。なお、横須賀上町教会はこれより早く1903年(明治36年)、日本福音教会横須賀教会として旧中里町(現上町)で創立しています。

目白ヶ丘教会は、駅近くとは思えないほど静かな住宅地にありますが、明治末期に広大な土地を持った近衛公爵家があって目白近衛町と呼ばれていました。近衛邸は残っていませんが、その玄関前、車廻しにあった大ケヤキだけが今も教会に行く道路の真ん中に立ち、また近くに立派な「近衛篤麿公記念碑」(近衛文麿の父)があります。

目白ヶ丘教会の設計は、このアングル259号(藤沢市の旧近藤邸)と、263号(真岡市の久保講堂)で取り上げたと同じ、FL・ライト18671959の高弟・遠藤 新18891951によるものです。竣工は1950年(昭和25年)で、建築面積は299㎡、礼拝堂の両側面に縦長窓が連続し、東面北端には尖塔アーチ型の鐘楼があり、堂内は大きな桁行のアーチで分割され、静謐な雰囲気が漂っています。少なからずライト様式の設計で遠藤の遺作に、クリスチャンの彼の葬儀は完成直後の1951年にこの礼拝堂で最初に執り行われました。2011年(平成23年)には国の登録有形文化財となっています。〔遠藤 新シリーズその3〕 2023.04.15.HK

 

 

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アングル264

新井旅館の「青洲楼」       国の登録有形文化財
新井旅館の「青洲楼」       国の登録有形文化財

~登録文化財15棟を持つ宿(新井旅館)~

 

日本の家屋は極端な話、基本的に木と紙でできており、100年を超えて存在し続けるのは並大抵の努力ではありません。近現代の明治、大正、昭和戦前と古い建物を登録有形文化財として15も持つ修善寺温泉の新井旅館は、1872年(明治5年)の創業で、今日まで150年。隣を流れる桂川に沿った長い建築群で、時代時代に増築を重ね、かつそれらを大事に修繕しながら、経営されてきました。画家、文人、歌舞伎役者など文人墨客が数多く逗留もしてきました。これは画家を目指したが旅館を継ぐことになった三代目館主・相原寛太郎(号・沐芳)の交遊等に拠っています。

  文化財として一番古い建物は1881年(明治14年)の「青州楼」で、木造3階建て、城郭造り、塔屋を持った教会風の建物です(未修復で内部は非公開)。また建物を結ぶ「渡りの橋」は1899年(明治32年)築で、安芸の宮島、厳島神社の架構を模しています。本館と道路を挟んで建つ長い建物は、1924年(大正13年)築の「甘泉楼」で、120畳の大広間をもつ。1928年(昭和3年)に横山大観のための居室兼アトリエとして建てられた離れ「山陽荘」。1934年(昭和9年)築の天平風呂は、もっとも縁の深い安田靫彦による設計、総檜造りの大浴場で趣き深いものです。なお、ロビーに掲げられた扁額「明月荘あらゐ」は1960年(昭和35年)川端龍子の書で、その「あらゐ」の文字は、部屋で使用の座布団カバーに、また食事の際の高級杉割り箸に焼き鏝して使われています。(2023.04.01.HK

 

 

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アングル263

左右に2つの塔屋が特徴的な久保講堂   (国登録有形文化財)
左右に2つの塔屋が特徴的な久保講堂   (国登録有形文化財)

~真岡市の久保講堂~

 

現在の「真岡市久保講堂」は、旧真岡尋常高等小学校講堂で、真岡市の篤志家・久保貞次郎氏より祖父の傘寿記念のお祝いとして、地元の学校に講堂建築の申し出があり、1938年(昭和13年)に竣工、寄贈されたものです。その後、真岡小学校の体育館完成や久保講堂の老朽化などの理由で、講堂取り壊しの方針が打ち出されました。1979年(昭和54年)、卒業生を中心に「久保講堂をのこす会」の署名活動がされ、市民が一体となって存続活動が繰り広げられました。これを受けて、市は1986年(昭和61年)に約一億円の費用をかけて現在地に移築、これにより学校はもちろん、多くの市民が利用できるようになっています。文化祭・芸術祭のギャラリー展、児童生徒の書道展、一般市民の各種展示会などが開催されており、様々な活動拠点として市民に親しまれています。

 久保講堂の設計は、フランク・ロイド・ライトの高弟、遠藤 新(あらた)です。木造階建、左右塔屋付、瓦葺、西洋式トラス構造、間口45m、奥行き20mと、水平横広で、白黄土色を基調にした落ち着いた広がりのある特徴を持っています。遠藤設計による「自由学園明日館講堂」(東京・西池袋)とは趣を異にした、風情のある建物でもあり、1997年(平成年)に国の登録有形文化財に登録されています。〔遠藤 新シリーズその2:その1はアングル259号に掲載〕(2023.03.15.HK

 

 

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アングル262

茅葺き大屋根の旧濱田庄司邸        (益子町指定文化財)
茅葺き大屋根の旧濱田庄司邸        (益子町指定文化財)

~益子町の旧濱田庄司邸~

 

旧濱田庄司邸は、江戸時代後期に栃木県市貝町に上層農家として建てられ、その後茂木町に移築され、1930年(昭和5年)にこの農家の母屋(おもや)を濱田が購入、益子に移築した建物です。木造平屋、寄棟造り、茅葺、間口23m、奥行11m、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、座敷には床の間や出書院が設けられるなど格式の高い意匠、内部の土間は陶芸の作業場として利用されました。現在は陶芸メッセ益子内に移築・保存され一般公開されています。茅葺屋根の修復は、横須賀の市立万代会館(旧万代順四郎・トミ夫妻別邸)も含め、日本各地でその存続は苦労のタネの状況にあります。濱田窯では最近は茅葺長屋門を修復していますが、その材料である茅は門前にある自前の茅畑でもその一部を確保しています。

濱田庄司(1894-1978)は、益子焼を普段使いの日用品から「用の美」を追求した民藝品へと本格的な作陶をめざしました。1926年(大正15年)に、濱田柳宗悦、冨本憲吉、河井寛次郎らと連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表、これが民藝運動のうねりとなっています。同時期、同じ民藝の思いを持った陶芸家バーナード・リーチとは日英を行き来した肝胆相照らす仲でした。1955年(昭和30年)に濱田は人間国宝に、また1968年(昭和43年)には文化勲章を受章するなど日本を代表する陶芸家に。「益子焼は濱田庄司の登場により近代陶芸、現代陶芸の幕開けとなった」(濱田友緒)のです。(2023.03.01.HK

 

 

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アングル261

紅白梅樹に囲まれた軍転記念の塔
紅白梅樹に囲まれた軍転記念の塔

~軍転記念の塔~

  

 「横須賀アリーナ」と呼ばれる不入斗運動公園の場所は旧横須賀重砲兵聯隊の練兵場でした。終戦後食糧難時代には農地や草地となり、トンボやカエルをつかまえたりと子ども達の遊び場にもなっていました。その後運動公園となり市制70周年を記念し、総合体育館がつくられました。現在、公園駐車場入り口ゲート脇の小高い一角に四方に時計がはめ込まれた「軍転記念の塔」があります。この塔は1950年(昭和25年)に施行された旧軍港市転換法から30年を過ぎた1980年(昭和55年)628日に建設され、周囲には毎年紅白の梅樹を1本ずつ植えてきました。今では老木となりましたが時季には紅白の梅の花が平和を祝しているように咲きます。「旧軍港市転換法」は軍港4市、横須賀市・呉市・佐世保市・舞鶴市のために制定されたもので、これにより軍港市は平和産業都市として軍用地や軍事施設の転用が図られました。不入斗運動公園もその中の一つです。軍転記念の塔には銘板に建設の目的が刻まれています。「旧軍港市転換法の制定により、本市が市是として平和産業港湾都市づくりを始めて満三十年になる。この間、公共並びに産業用として約789万㎡に及ぶ旧軍用地の転換を得、今日の繫栄を見るに至った。30周年を迎えるに当たり過去を偲びつつ、この法の下将来の限りなき発展を期してここに記念の塔を建設する。」平和と発展の願いです。(2023.02.15