~日本初の私立美術館・大倉集古館~
世界中で大きな財を成した者は、美術・工芸・典籍類など様々な作品を蒐集するのを常としてきました。大倉喜八郎(1837-1928)は、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興して大倉財閥を成した実業家です(解体後のメインは大成建設)。その成功の過程で日本や東洋の古美術を中心に長い間に蒐集しましたが、これらを収蔵・展示するため、1917年(大正6年)に邸宅の一角に大倉集古館を建てます。関東大震災では展示館の一部を失い、新たに伊東忠太博士(東京帝国大学教授)により中国風の建物が設計され、1927年(昭和2年)に竣工(国の登録有形文化財)。美術館として建物はそれほど広くはないものの、外観は重厚な雰囲気にあふれています。喜八郎の逝去後は嫡子・大倉喜七郎(1882-1963)が近代日本画など収蔵品を充実させ、今日に至ります。
戦後に大倉喜七郎は敷地内にホテルオークラを建設するため、集古館の建物の一部を整理解体しています。さらにその後、時代を経てホテル本体の老朽化で近年大規模な建て替えが進められ、同時期2019年(令和元年)に集古館もリニューアルしています。本体を道路側に6m曳家、周りの増築部分の解体、これまでになかった地下階の増築など、最新設備となって完成。なお、国宝3件、重要文化財13件、重要美術品44件など、収蔵品は充実した内容となっています(本号は〔伊東忠太シリーズ〕として、アングル276号=2023.10.01.より毎月1日号に継続掲載)。(2024.10.01.HK)
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~擬洋風建築・旧西田川郡役所~
山形県鶴岡市の致道博物館は重要文化財建物を始め、庄内の歴史や文化を伝える博物館として1950年(昭和25年)に創立しました。
旧西田川郡役所は、1969年(昭和44年)国指定重要文化財に、翌年致道博物館へ譲渡され、解体調査の後、1972年(昭和47年)に復元修理が終わり一般公開となりました。
旧西田川郡役所は、初代県令・三島通庸(みしまみちつね)の命で1878年(明治11年)計画され、設計・施工は大工棟梁高橋健吉と石井竹次郎で1881年(明治14年)5月に落成しました。9月24日には明治天皇の東北御巡幸の行在所ともなりました。木造2階建、両翼1階建、玄関突出、中央塔屋、時計台付、桟瓦葺、棟高20m、建築面積264.99㎡。建物の特徴はバルコニーと塔屋・時計台で玄関ポーチの柱脚台や吊り階段などにルネサンス様式の模倣が見られる擬洋風建築とされています。
一般的に擬洋風建築は幕末維新変革期の、技術を身に着けた大工棟梁によって「見よう見まね」で設計施工された、和様をベースに西洋建築の特徴的意匠や中には中華風などを取り入れた建築から文明開化を伝えたとされています。西田川郡役所を担当した棟梁は西洋建築を学んだ技術者で、単に「見よう見まね」ではなく擬洋風建築は新たな日本独特の建築様式であり、単なる模倣と表現されるのはどうでしょうか。(2024.09.15)
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~築地本願寺(国指定の重要文化財)~
築地本願寺の発祥は、1617年(元和3年)に西本願寺の別院(浅草御堂)としての創建ですが、1657年(明暦3年)「明暦の大火」で焼失。大火後の区画整理で幕府より代替地として八丁堀の海上を、これを埋め立てて土地を築き(築地の由来)、本堂を再建し「築地御坊」に。時を経て、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失し、1934年(昭和9年)に東京帝国大学名誉教授、伊東忠太博士の設計により現在の本堂を再建(国の重要文化財に指定~門柱と石塀も)。耐火鉄筋コンクリート造り、外観は古代インド仏教建築を模した斬新かつ荘厳な風景です。堂内は伝統的寺院の造り、本堂後方には珍しいパイプオルガンが設置され、またステンドグラスや、石造りの動物・霊獣風のものなど様々な意匠が施されています。
外観からは何という建物だろうかと現在でも首をかしげられるに違いない。日本では伝統的な神社仏閣の姿があり、どこの寺社もそれほどに大きな変わりはないでしょう。もし先に多くの伝統的な寺院を伊東忠太が設計せずに、この築地本願寺が初めてだったら、寺社建築の大御所としての地位は得ていなかったかもしれない。アジア地域を研究して歩いた伊東忠太と、同時期、仏教伝来ルートを探る探検隊を結成した大谷光瑞(浄土真宗本願寺派門主)との出会いが強い絆となって、歴史に残る建築物が生み出されています(本号は〔伊東忠太シリーズ〕として、アングル276号=2023.10.01.より毎月1日号に継続中)。 (2024.09.01.HK)
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~旧阿仁鉱山外国人官舎(現・北秋田市阿仁異人館)~
秋田内陸縦貫鉄道は秋田県角館から鷹巣までの田園や森林のなかを走ります。その途中駅の阿仁合駅から3分ほどのところに異人館と呼ばれる木骨レンガ造の建物があります。秋田県は古くから鉱物資源が豊富で、阿仁鉱山は江戸時代には銅の産出日本一となりましたが、1875年(明治8年)、政府(工部省)の所管となり、産業振興のため外国人技術者(お雇い外国人)を雇い入れました。この官舎は1880年(明治13年)に着工し同15年に竣工、当時は「夷人館(異人館)」と呼んでいたそうです。鉱山技師メッケルが自身で設計したとされる建築面積267.2㎡の官舎で、地元水無の下浜で焼いた赤レンガをイギリス積みし、周囲にベランダを巡らせたコロニアル形式。1990年(平成2年)に国指定重要文化財に。1883年(明治16年)の鹿鳴館に先行し、秋田県最古の洋風建築で、レンガ造住宅としても全国的にも古いもののひとつであり、産業近代化初期の建造物と言えます。1986年(昭和61年)、阿仁町郷土文化保存伝承館を隣に建設し、異人館へは坑道を連想させる地下道からしか入れません。地下道はちょっと深く足元が危なく感じました。
なお、縦貫鉄道の阿仁マタギ駅近く、阿仁打当には、地震・火山噴火などの地殻変動の監視に役立っている国土地理院の設備、《電子基準点》の塔があり、GPS衛星から送信される電波信号を受信するアンテナが取り付けられています。(2024.08.15)
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~ 一橋大学兼松講堂 (登録有形文化財)~
日豪貿易で始まった商社の兼松商店(現・兼松株式会社)は、創業者・兼松房治郎翁の遺訓に基づき、東京商科大学(現・一橋大学)に建築・寄贈したのが兼松講堂。1927年(昭和2年)8月に東京帝国大学教授・伊東忠太博士の設計により創建されたロマネスク様式の建物です。講堂内外に伊東特有の動物や霊獣が装飾されており、これらは伊東の設計になる東京都慰霊堂、築地本願寺、湯島聖堂などにも多く見られます。2000年(平成12年)に国の登録有形文化財に。なお、兼松は高度成長期には兼松江商として総合商社の一翼を担った時期もあります。
一橋大学の前身は古く1875年(明治8年)に森有礼による商法講習所に端を発し、その後、東京商業学校、1887年に高等商業学校に。これが日本最初の官立単科大学、東京商科大学になったのは1920年(大正9年)のこと。1923年の関東大震災により都心の多くが灰燼に帰しますが、一ツ橋にあったこの大学も例外ではありません。新校地を郊外にとの学内意見から、府下北多摩郡谷保村(現・国立市)に移転。1926年(大正15年)には中央線の新駅として国立駅(国分寺と立川の間に)が開業しています。1927年4月には商学専門部仮校舎が新築され、大学本科の国立校舎への移転は1931年(昭和6年)5月までに完了しています。戦後に文系総合大学となって一橋大学に改名(現在5学部)。(本号は〔伊東忠太シリーズ〕で、アングル276号=2023.10.01.より毎月1日号に継続掲載)。 (2024.08.01.HK)
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~鶴岡カトリック教会天主堂~
山形県鶴岡市の中心部に建つ天主堂は1903年(明治36年)、庄内藩家老・末松十藏の屋敷跡に建った教会です。フランス人のパピノ神父の設計で約3年間をかけ、鶴岡市在住の大工棟梁相馬富太郎により完成したバジリカ型三廊式ロマネスク様式の教会です。バジリカ型とは長方形の会堂中央部を身廊、左右を側廊とし、身廊の天井は高く側廊は低く構成されたヴォールト天井で、建物全体への音響効果が良いとされています。側廊は畳敷きでパイプ椅子が並べられていました。東北地方ではこの様式の最古の建物で、1979年(昭和54年)国重要文化財に指定されています。高さ23.7m、正面巾10.8m、奥行き23.75m、木造瓦葺。外観の特徴は高い鐘楼、建物を取り巻く半円アーチが連続するロンバルト帯。天主堂の窓絵は薄い透明な紙に描かれた聖画を外側から貼り、さらにその外側にガラスを設け二枚のガラスで挟んだもので、通称「貼り絵」(プリテイッド・フィルム・ステンドグラス)と言われステンドグラスの代用とも思われますが、現在ではここでしか見られないそうです。パピノ神父は両津カトリック教会、明治村へ移築された聖ザビエル天主堂など多くの教会建築にかかわりましたが日本での最後の設計がこの天主堂でした。堂内には世界でも珍しい黒いマリア像、日本では唯一の聖母像があります。庄内地方へのキリシタン布教巡回は1622年(元和8年)に始まったとされています。(2024.07.15)
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~笠間稲荷神社・瑞鳳閣~
お稲荷様は、日本三大稲荷、四大稲荷などと、伏見稲荷大社を筆頭に、豊川稲荷、笠間稲荷、祐徳稲荷などが挙げられ、笠間は著名なお稲荷様の一社です。その笠間稲荷の一郭に瑞鳳閣があります。瑞鳳閣は、大正天皇御即位記念として建設し、1917年(大正6年)に完成していますが、設計は、平安神宮や築地本願寺などの設計で知られる伊東忠太博士(1867-1954、金子清吉と)で、オーソドックスな寺社建築です。もとは現・拝殿の東方にある藤棚付近に建設され、稲荷図書館としていたものですが、1995年(平成7年)に資料保管庫として現在地に移築、その際、建物頂上の飾り(相輪)が以前の宝珠から、鳳凰に付け替えられています。2階には、明治から昭和初期に活躍した笠間出身の日本画家、木村武山画伯(1876-1942)による鶴の天井画が配されています。
なお、笠間と言えば江戸時代中期から焼き物が良く知られた存在です。これが近くの益子町に拡がり、近代の民芸運動とともに一気に世界的な存在になっています(詳細はアングル262号、濱田庄司邸参照)。笠間焼、益子焼ともに国指定の伝統工芸品で、2020年(令和2年)に焼き物文化を軸に日本遺産に認定されています。また近くに銀座の日動画廊が笠間日動美術館を開設、さらにその別館として北大路魯山人旧居も近くに移築し、美術愛好家や観光客を呼び込んでいます。(本号は〔伊東忠太シリーズ〕として、アングル276号=2023.10.01.より毎月1日号に継続掲載)。(2024.07.01.HK.)
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~三渓園の旧東慶寺仏殿の保存修理~
国指定名勝「三渓園」には17棟の歴史的建造物が保存されています。旧東慶寺仏殿は縁切寺として知られる鎌倉市の東慶寺から移築された建物です。明治以降東慶寺は衰退し建物維持が困難になったため原三渓が1907年(明治40年)に三渓園に移築しました。この時納められた棟札に「禅師説法の道場と三渓園の鎮護とするため移築した」旨が書かれています。
この建物は家康の孫、徳川忠長の御殿の材料を再利用したもので、その痕跡が伝えられる格天井の組み木と金具に今回の修復で漆と金箔が施され華やかな往時を偲ぶことができます。
今回の保存修理工事期間は3年4か月、屋根から解体を始め、建物の骨組みを途中まで解体する「半解体修理」の方法で、2023年(令和5年)12月に竣工。建物本体(身舎・もや)は茅葺屋根、周囲(裳階・もこし)は杮葺き(こけらぶき)屋根で、葺き替えを含め構造補強や壁などの耐震補強、瓦製のタイルを斜めに敷き詰める禅宗様の四半敷(しはんじき)など、見た目や材料に配慮し文化財としての価値を損なわない設計・施工、矧木(はぎき)や埋木(うめき)といわれる伝統的な匠の技などが結集された工事でした。この建物は1931年(昭和6年)に指定された国指定重要文化財です。なお、文化財は次世代に歴史と文化を伝える役割があります。横須賀市指定文化財の市立万代会館でも行政と市民が価値を共有できるような取り組みが期待されます。(2024.06.15)
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~法華経寺・聖教殿(しょうぎょうでん;重要文化財)~
千葉県市川市中山に日蓮宗大本山の法華経寺が鎮座しています。鎌倉時代の1260年(文応元年)の創建。この寺には、日蓮上人真筆の「立正安国論」「観心本尊抄」の国宝2点、また日蓮真筆の42にのぼる遺文の重要文化財をも蔵しています。これら宝物収蔵のため、1931年(昭和6年)に寺社建築の大御所、伊東忠太博士の設計で建てられたのが、聖教殿です。堅固な石造りですが通常非公開(11月3日のみ風通し特別公開)。シルエット的にはパゴタ風で、築地本願寺に通じる伊東忠太として珍しい建物です。法華経寺にはこの聖教殿とともに、五重塔、祖師堂、法華堂、四足門などが国指定の重要文化財となっています。
なぜこの地にこうした重要な文物や建物があるのか。鎌倉時代、日蓮(1222-1282)は「法華経」のみが正しく、他の全ての宗派を厳しく否定したため、他宗の僧侶や為政者からたびたび苛酷な迫害(四大法難)を受けます。その際、千葉氏の被官であった富木常忍(後に日常)は、日蓮のために法華堂を造営し安息の場を、また文吏であったので紙筆を提供してその執筆を助けており、これにより多くの日蓮の遺文が遺されたものです。
なお、大荒行堂では、日蓮宗修行希望僧が寒中を含む厳しい荒行100日間に挑みます。その際、荒行僧から一般人も祈祷を受けられます(筆者受祷)。この日蓮宗荒行は天台宗比叡山千日回峰行に並ぶ苦行と言われています。(本号は〔伊東忠太シリーズ〕として、アングル276号=2023.10.01.より毎月1日号に継続)(2024.06.01.HK)
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~商家の姿を伝える旧磯部家住宅~
愛知県犬山市には国宝犬山城と博物館明治村があります。犬山城を正面にした本町通りは100を超える食べ歩きや飲食店、お土産屋が並ぶ商店街。間口に税金、という昔の町割りで奥行きが長く間口の狭い「ウナギの寝床」と呼ばれる商家を形成してきました。平成17年に登録文化財として登録された旧磯部家住宅は本町通りに面し、江戸時代から「柏屋」の屋号で呉服商、太平洋戦争後に製茶・販売を営んでいました。敷地は間口6.8m、奥行き約58m、面積691㎡(209坪)で、平成16年に犬山市が国の街並み環境整備事業の補助を受け、まちづくり拠点施設として用地を購入。幕末から明治初期にかけて建築された建物で、特徴はかまぼこ状の緩やかなふくらみを持った「起り屋根(むくりやね)」で犬山市の町屋では唯一です。平成16年に磯部家から市へ寄贈されました。主屋、裏座敷、土蔵、奥土蔵、展示蔵の5棟で構成され、見学は自由、3つの土蔵と和室一間を有料貸し、町屋文化の伝承やまちづくり団体の活動を支援、城下町の活性化をはかっていくことを役割としています。
横須賀市津久井の市立万代会館は万代トミ氏の遺贈を受けた茅葺屋根の民家で、市の重要文化財指定の建物です。長らく室内立ち入り禁止でサシガヤを施すなどしながら維持されてきました。建物の役割は人が価値づけていくもの。大事に生かしていきたいものです。(2024.05.15)